フランス生活 Lived in France

1995年から2年間、フランス・パリ郊外のFoch病院心臓血管外科で働きました。阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件があった年でした。


奨学金を出して頂ける企業があり、当時の伴教授、松田助教授のご紹介で留学させて頂きました。言葉は全く出来ませんでしたが、心臓血管外科の先輩方にフランス留学の経験者がいらっしゃったので、『何とかなるさ…』と決めました。

フランス留学の経験がある松田先生にフランス人女性をご紹介頂いて個人レッスンを受け、また、週1回、日仏学館のフランス語講座を受講しました。1年間勉強しましたが、フランス語の壁は高く、ほんの少しだけ理解できる、ほんの少しだけ話せる程度での渡仏となりました。


渡仏後は、ホームシックになる暇もない程、次から次へ想定外の出来事が起こったり、住んでいたシュレーヌには日本人がいなかったので孤立無援、無我夢中の毎日。

それでも、振り返るとフランスでの手術の経験や生活、貧乏旅行など、今までの人生のハイライトだったと思います。ギュッと濃縮された『しあわせな時間』でした。


Foch病院

フォッシュ病院は、パリ郊外シュレーヌ市モンバレリアンという小高い山の中腹にあります。頂上付近は今でもフランス軍の基地になっています。病院の名前は第一次世界大戦で活躍したフォッシュ将軍に由来します。

エッフェル塔を眺める名所、トロカデロ広場にフォッシュ将軍の像が建っています。

フォッシュ病院はパリ市内からブローニュの森を抜け、凱旋門賞で有名なロンシャン競馬場のすぐそばを走り、セーヌ川を越えてすぐの所にありました。心外病棟からはブローニュの森、パリ市内が見えます。

ブローニュの森の向こう、中央にエッフェル塔、右にモンパルナスのビル群が一望できます。


フランスの有名な『Figaro紙』が出版している『Figaro magazine』が、新しい手術の取材に来ました。虚血になった心筋の外からレーザーで小孔をたくさん開け、心臓の内側から血流が入る事を期待する治療法です。


左の写真はドレイフュス教授です。

左の写真で、ゴーグルを掛けたドレイフュス教授の下に小さく写っているのが僕です。

記事が掲載された雑紙です。

病院前にあるSNCF(フランス国鉄)の売店に買いに行き、今も大切に保管しています。

Foch病院では、他の病院に移っていくインターンが、みんなを会議室に呼んでお世話になりました…と言う会を開くのが恒例となっていました。僕も帰国前にみなさんをご招待しました。奥にボスのギルメ教授、右にお世話になったバッシェ先生がいらっしゃいます。

前列がアフリカ・マダガスカル出身の検査技師のPaul、僕の向かって右が同じインターン仲間、レバノン人のNajiです。日産のカルロス・ゴーン社長によく似ています。フランスでの研修が終わったら、車を運転してレバノンまで帰ると言っていました。

バッシェ先生が2013年に大阪で行われた血管外科学会に招請公演で来日された際、会食の機会がありました。

倉敷でもお世話になったN先生とバッシェ先生ご夫妻と…


アパルトマン

住んでいたアパルトマンはフォッシュ病院前のSNCF(フランス国鉄)の駅を挟んだ向かい側、看護学校の敷地内にありました。中央の白い建物の1階で2Kの部屋に住んでいました。2階には病院に勤める電気技師さんの5人家族が住んでいらっしゃいました。奥に見えるのが看護学校と看護師寮です。家には洗濯スペースがなかったので、妻は毎日のように洗濯物を抱えて看護師寮の地下1階にある洗濯室に通っていました。


『沈黙は金』じゃない

妻は毎日のように看護師寮の洗濯室に通っていましたが、その際、見ず知らずの看護師さんから『マサキは家で話をするのか?』と尋ねられた事があり、質問の理由を尋ねると『マサキは病院ではBonjour(こんにちは)Merci(ありがとう)Au revoir(さようなら)しか話さない』と言われた…と言うことがありましたが、今では笑い話になりました。

 

手術室での手術は、フランス語が分からなくても参加できますが、最初の半年ほどはフランス語がBGMのように聞こえました。半年を過ぎた頃、ようやく単語が少し聞き取れるようになり、帰国前には手術器具購入の交渉もフランス語で出来るようになりました。

手術室で日常的に飛び交う『ののしり言葉』はすぐに覚え、妻に教えました。会話は余り出来なくても、ぽつりとののしり言葉をつぶやくと、フランス人の態度が急変します。『この東洋人は喋らないけれど分かっているのだ…』と驚かれます。

 

順番に並んでいる時に割り込みされた時や、店員さんが笑顔で丁寧な対応をしている振りをしながら実は悪口を言っているような時、フランス語でぽつりと『くそったれ!』なんてつぶやくと、目をまん丸にして驚かれます。まさに、学校では教えてもらえない『生きたフランス語』です。フランスでは、自分の意見が言えなかったり、意思表示が出来ないと無能だとバカにされます。

 

妻が習っていたフランス語の先生に、ののしり言葉を僕に教えてもらったと言うと『なんて事だ…』と驚かれたそうです。外国人には知られたくない下品極まりない言葉のようで、特に女性には絶対に口にして欲しくない言葉だと教えてくれました。それだけに、たまにつぶやく言葉が破壊力抜群なのでしょうね…。渡仏当時、フランスで人気があった日本の漫画『ドラゴンボール』の『カメハメ波』さながらに…。

語学学校で習うフランス語よりも、実生活で役立つ『生きたフランス語』が習得できたように思います。


アクソンパリジャン♪

大人は四苦八苦したフランス語でしたが、当時5歳の次男は現地の幼稚園に通園していたため、半年ほどで寝言までフランス語になるほど上達しました。日本人が苦手とする“R”の鼻から抜ける発音も難なく習得し、フランス人から『アクソンパリジャン(パリジャンの発音)』と褒められるほど綺麗な発音をしていました。

羨ましい限りですが、帰国後、島根県松江市の小学校に転校し、半年も経たないうちに『松江弁』にすり替わってしまいました。覚えるのが早い反面、忘れていくスピードの速さにも驚きました。

左は妻のフランス語の先生を自宅に招いた時の写真です。左の男性が アルジェリア出身のキャメル(Kamel)、右の女性がフランス人女性のマリー・ブランシュ(Marie-Blanche)です。キャメルの自宅にご招待頂いた時、ママ直伝の『クスクス』をご馳走になりました。お二人には言葉だけでなく生活や文化の違いについても満面の笑顔で教えて頂きました。

 

大変なことが多かった留学生活の中で、楽しい想い出として心に残っています。

 

“Bon courage!  Tu as  beaucoup de chance!!”

先生から良く掛けて頂いた言葉です。心が折れそうになった時、ふと思い出す『魔法の呪文』になっています。


フランス語 vs 関西弁


妻が39℃を超える高熱で3日ほど寝込んでいた時のことでした。


部屋のドアを何度もしつこく蹴られ、子供達が怖がるので意を決して対応に出た所、『車に塗料が付いている。お前の仕業に違いない。ガーディアンに言いつけてやる!』と、白髪のフランス人男性に難癖を付けられ怒鳴り込まれた事がありました。

初めは片言のフランス語と英語で対応していたものの、全く身に覚えのない上、余りの理不尽さと屈辱的な言葉に怒り心頭、妻は関西弁で応戦し始め、予想外の反撃に驚いたフランス人男性が『ガーディアンに言いつけてやる!』と捨て台詞を吐きながらすごすごと逃げて行くと言う光景を、仕事帰りに目の当たりにしました。


『フランス語 vs 関西弁』は関西弁が圧勝のようで、改めて関西弁の破壊力は最強だと思いました。子供連れの海外生活、妻はこの出来事の後『さらに強く逞しくなった気がする…』と言っていました。言葉は違っても、意思表示する事の大切さを実感した出来事でした。


思い出のシャンボール城

約30年前、新婚旅行でパリに行きました。

パリ滞在型で、連日美術館巡りをしたり観光したり…。

日帰りの『ロワール川古城巡り』のオプショナルツアーに参加した時、最初のお城のシャンボール城でツアーバスに置いてきぼりにされてしまいまった苦い思い出がありました。

パリを訪れたのは3月下旬、お城に置いてきぼりにされた日はとても寒い日でした。ツアーバスが行ってしまった後は観光地なのに閑散として誰もいなくなってしまい、お城の傍の土産物店も閉店で追い出され、荷物はすべてバスの中だったので小銭しかなく、雨がみぞれに変わり、凍えるような寒さの中ガタガタ震えながら心細い2時間を過ごした事を思い出します。


目の前で発車してしまったバスを追いかけ、それでも気付かれずに置いてきぼり…

まるでドラマに出て来る場面のようでした。


集合時間前に戻ったのに…。添乗員さんは人数の確認をしなかったそうです。

他のバスの添乗員さんに事情を説明し、『次のお城まで乗せてくれませんか?』とお願いしましたが乗せてもらえず…(当然ですね)土産物店も追い出され、雪の降る中、電話を探してウロウロ…。ようやく電話を見つけても勝手が違うので掛け方がよく分からず…。『繋がった』!と思ったら本題を話す前に切れてしまい、『次のタクシーが来たらパリまで帰ろう…着払いで…』と、覚悟を決めて待つこと2時間、ようやく来たタクシーから出て来たのはツアー関係者の方で、そのタクシーでツアーのみなさんがお昼ごはんを食べていたレストランに送って下さいました。拍手で迎えられるという恥ずかしい思いをしました。レストランからは赤のグラスワインをご馳走になりました。以降、お城見学でバスを乗り降りする度に存在をチェックされ、忘れられない思い出となりました。携帯電話がない時代でした。

当時は恥ずかしくて嫌な思い出でしたが、月日が経つとすっかり笑い話になりました。


この事件以来、我が家はツアー旅行に参加したことがありません。手間はかかっても自分達で大まかな計画を立て、大抵はレンタカー利用、行き当たりばったりの旅行をするようになりました。これも、2年間のフランス生活で左ハンドルの運転の経験があったからだと思います。フランスで車を買ったら一番最初にシャンボール城へ行こうと決めていました。